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塾・新時代のマーケティング論(90)
神村学園に学ぶ「美徳」と「継続」の意義

森智勝氏

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 少し古い話題で恐縮ですが、今年の春の甲子園大会の「ちょっといい話」です。高校球児の溌剌としたプレーは、いつものことながら気持ちのいいものです。そうした中、素晴らしい光景がありました。当時、話題になったのでご存知の方も多いと思います。それは、1回戦の石巻工業対神村学園の対戦の中、正確には試合終了直後に起こった出来事です。石巻工業は大震災を克服して21世紀枠で甲子園出場をかち取りました。主将の阿部君の選手宣誓は立派でした。対する神村学園は鹿児島代表、初出場で準優勝をしたことがある強豪校です。途中、4点差を逆転するという健闘むなしく、石巻工業は敗れました。審判を挟んで両チームの選手が整列し、互いに礼をします。その瞬間です。神村学園の選手達は、持っていた帽子とグローブを地面に置き、石巻工業の選手達に「両手で」握手を求めたのです。

 サヨナラ勝ちでない限り、勝利チームは守備で試合を終えます。当然、手にはグローブがあります。グローブを手にしたまま片手で握手するのが普通です。ところが神村学園の選手達は、整列する時からグローブを外して両手で抱えていました。地面に置く準備をしていたのです。

 石巻工業との対戦が決まった時、神村学園の選手達の気持ちは複雑だったと思います。対戦相手は被災という困難を克服しただけではなく、今なお不自由な生活を余儀なくされている地元被災者達の思いを背負って来ています。日本中が相手チームを応援するのは目に見えています。(実際、中継は石巻一辺倒と言ってもいい実況でした)しかし、試合には正々堂々と全力で臨まなければなりません。その上で彼らは、被災地からやってきた相手に対する敬意、その背後にいる多くの被災者へのエールを表する行動を考えました。それが選手間の相談だったのか、監督からのアドバイスだったのかは分かりません。それでもあの瞬間、日本中の高校野球ファンの心に爽やかな風が吹いたことは間違いないでしょう。

 被災地に勇気と笑顔を…言うのは簡単ですが、行動で表すのは難しい。それを神村学園は見事にやってのけました。思いは形で表さないと届かない…私が塾経営のアドバイスをする上での基本です。多くの塾が「面倒見の良さ」「とことん教えます」「学力だけではなく人間力の向上を目指して」等々、自塾の独自性を主張します。しかし、それを「形」で表している塾は少ないものです。「形」で表さなければ、どんなに崇高な主張も相手には届きません。

 さて、こんな古い話題を持ち出したのは、夏の甲子園大会にも出場した神村学園の美談?が再び取り上げられたからです。地元(名古屋)の新聞によると、神村学園の野球部員達が毎日、早朝4時半から甲子園球場の周りを掃除していたというのです。それを伝える記事は「早朝から並ぶ甲子園の常連客からは『神村学園、頑張れよ』の声援も飛び…」とあります。

 神村学園に対しては、野球留学の問題で一部の識者から批判的な意見が出されていることを承知しています。その是非は別にして、こうした教育方針は素晴らしいと思います。また、こうした美談には「偽善だ」「売名行為だ」という批判がつきものですが、私は「偽善も善だ」と考えています。(この言葉は某塾経営者に教えていただきました)長年に渡ってベトナム孤児を支援している俳優、杉良太郎氏の「私のことを売名行為と批判するのは構わない。ただ、私と同じことをしてからにしてほしい」という趣旨の発言を聞いたことがありますが、全くその通りです。

 この神村学園の事例から2つのことを学びたいと思います。

 我々日本人は美徳の意味を深刻に捉えすぎています。例を挙げると、ボランティア=自己犠牲と考えています。ですから、自己犠牲を伴わないボランティアには偽善、売名行為という非難が付きまとい、それを恐れてボランティアに積極的になれないという矛盾を生じています。本来のボランティアの定義は、自らの余分な資源…それが資金であれ労働力であれ…を提供することです。ですから、欧米では気軽に楽しんでボランティア活動に取り組むのが普通です。自己犠牲によって何かを提供することはボランティアではありません。仏教で言う「捨身」に該当する行為です。これは一般の人にとってはハードルが高く、長続きもせず…結果として成果が乏しくなるのが常です。

 多くの塾(特に中小塾)は塾長をはじめとするスタッフの献身的な行為によって成立しています。テスト前には休日を返上して対策授業を行い、寝る時間を削って教材作成に取り組んでいます。それは頭の下がる行為なのですが、一部に「自分は自己犠牲をして指導に当たっている」と考えている塾人がいます。テスト前対策に参加しなかった生徒に対して、「なぜ来なかった」と責める教師です。その背景には「私が休日を返上してボランティアでやっているのに…」という気持ちが見え隠れしています。そもそも我々はビジネスをしているのですから、「ボランティアで…」というのは間違いなのですが、そうであったとしても、ボランティアは気軽に楽しんで行うものです。生徒と一緒にテストに向けて頑張ることに喜びを感じてはじめて意義のある行為です。捨身の思いで行なう行為は相手(生徒)にとっても重すぎて、身をかわしたくなるものです。結果、大きな成果につながらないという悪循環を生じさせます。最近はテスト期間中の早朝特訓を実施する塾も増えてきましたが、これも捨身の思いで実施したのでは逆効果でしょう。喜びを見出しながらの行為でなければ継続が難しいことは、次の「学び」につながるテーマです。

 もう1つの「学び」は、ブレイク・ポイントの問題です。スポーツ(例えば短距離走)を例に挙げると理解しやすいのですが、人の努力と成果は比例しません。毎日100mを10本走ったからといって、毎日0.01秒ずつ記録が伸びることはありません。頑張っても頑張っても記録が伸びないという苦難の日々を過ごす中、突然、記録が伸びる時期を迎えます。その時点をブレイク・ポイントと言います。このブレイク・ポイントは努力を続ける者には必ず訪れるのですが、それがいつ訪れるかは誰にも分かりません。そのため、ブレイク・ポイントを迎える前に多くの人が諦めてしまいます。

 さて、前述の「神村学園の甲子園清掃」の話です。彼らは「その日だけ」清掃活動をしていたのでしょうか。記事によると、「大阪入りしてから毎日」とありました。これは私の想像ですが、神村学園は今大会だけではなく、これまでも甲子園に出場した時は欠かさず同じ清掃活動をしていたのではないでしょうか。その不断の行為が今回、やっとマスコミの知れるところとなってオモテに出た…いわゆるブレイク・ポイントを迎えたというのが真実だと思うのです。

 例えばポスティング、例えば門配…ほんの数回の実施で「やっても効果がない」と速断し、止めてしまう塾を見掛けます。いわゆるブレイク・ポイントを迎える遥か手前で挫折してしまうのです。それが塾舎前の公園清掃でも同じです。「継続は力なり」の本当の意味は、継続していれば「いつか必ず」ブレイク・ポイントはやってくるということです。

 同じことは部下育成にも言えます。たいていの場合、数回のアプローチで「こいつは何をやっても変わらない」とサジを投げてしまいます。「人が他者からの影響で変わる確率」は多くて4%と言われています。100人に同じことを言っても、それを理解して変わるのは4人です。つまり、もし、ひとりの人間を変えようとするならば、25回のアプローチが必要だという計算になります。「呑みニケーション」で相手に変わってもらおうという場合、1度や2度ではダメだということです。(週に1度ならば)半年に渡って続けることです。それでも効果がない時はじめて、「こいつは何をやっても…」と判断すべきなのです。ほとんどの場合、それ以前に「あなたの真意」が伝わり、部下の態度変容が実現するはずです。「この上司は本気で自分のことを考えてくれている」と理解してくれるはずです。

 上司(リーダー)には「諦めない行動」が重要だということを、あらためて神村学園が教えてくれます。(もっとも、彼らはマスコミに取り上げられたくて清掃活動を続けていたわけではありませんが)

 ブレイク・ポイントは生徒の学力(成績)にも言えることです。秋は挫折の季節です。頑張っても頑張っても成績向上が見られない生徒に対してこそ、あなた(塾)の真価が問われています。

 
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