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塾・新時代のマーケティング論(7)
「組織の長に求められるリーダーシップ」

森智勝氏

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以下の文章は、愛知県を中心に独占状態を作っている「中日新聞」に載った藤島大氏のコラムである。非常に示唆に富んだ内容なので皆さんに紹介したい。

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クラブハウスの玄関をきれいにする。試合へ向かうバスでの携帯電話を許さない。
それがサッカーの勝負に関係あるだろうか。
結論を書いてしまう。
ある。絶対にある。
いつか机の上があまりに散らかっていて、インクの切れたペン、古雑誌、つながっていないコード、何層もの不要な物質を取り除くと、地球のどこにも無いドライフルーツが出てきた。そんなスポーツライターでも断言できる。
クラブハウスの玄関が美しいチームは強い。ロッカー室が清潔なチームも強い。監督にしかられるといった恐怖のためでなく、誇りの発露として大切な場所が片付けられていれば、絶対に強いのである。
横浜Fマリノス、Jリーグ第1ステージ優勝を果たす。すぐに担当記者が教えてくれた逸話が思い浮かんだ。
岡田監督は今季就任からしばらくして、クラブハウス玄関の改善をスタッフに指示した。わずかな乱雑も排し、すっきりと。世界の一流クラブはどこもそうだ。
開幕前の3月にインタビューできた際には、以下のような方針を語っていた。
食事を全員が終えるまで席は立たない。「10分でかきこみ、すぐ自分の世界へ戻る風潮」に異を唱えたのだ。エースの久保竜彦は栄養学の見地から何でもよくかむので、みんな待たされた。
「試合へ向かうバスでの携帯電話も禁止しています」
理由、俺がきらいだから。
「そのほうがリラックスできる選手がいてもチームとしてまとまれない」
いわゆる規律である。
この分野が日本のスポーツ界では、なかなか機能してこなかった。日常生活が無責任であいまいな規律に覆われているので、勝負を前にした強い規律を「非日常」と割り切れない。
案外、個人主義の外国文化のほうが規律は受け入れられる。集団主義は戦争とスポーツでしか経験しないから、はっきり「普段とは違う」の覚悟が生まれるのだ。

たとえば1991年のラグビーの第2回W杯を制したオーストラリア代表の選手は、各国の集まる開幕直前ディナーで誰もジャケットを脱がなかった。少し蒸すのになぜ。キャプテンが着たままだから。全員、それに従うのだ。チームの方針だった。あの時、あの大男どもは、気詰まりを感じたろうか。むしろ優越感をおぼえたはずだ。
岡田監督は開幕前の問答でこうも述べた。
「マスコミに死ぬ気で優勝しますと言ったところで勝てはしない。自分に出来ることにおいてベストを尽くす。日常のコンディション管理、練習での集中と質の向上。これしかないんだと」
高い目標(常勝集団)を打ち立てる。体力5割強化を目指すトレーニング、的確な補強、簡潔かつ明快な戦法、そうした正統な強化の一環に規律は含まれる。「この1本のシュート。この1本のダッシュ」。今季のチームがこだわってきた芝の上での厳しさと同じ地平に「携帯電話禁止」はある。
わが机を正当化するのではないが、スポーツの規律は個人の美学とは別だ。復古的な政治家の説く「道徳」と一緒にされては困る。
あくまでも自由な個人の自由な活動における永遠ではない不自由。責任は、ただ指導者に帰する。「俺がきらいだから」。それでいいのだ。
ゆえに横浜は強かった。

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この文章中の岡田監督をあなたに置き換えて考えてみてほしい。
「企業はトイレで判断せよ」という言い古された格言を持ち出すまでもなく、汚れた教室、トイレで断トツの集客をしている塾などはない。よく、「中身で勝負」などと言って掃除をサボっている塾があるが、「汚れていた方が良い理由」などない。通ぶって「ちょっと汚い店の方がラーメンは美味しいものだ」とのたまう輩がいるが、冗談ではない。少なくとも私は、ゴキブリが出そうな不潔な店はごめんこうむる。
業績の上がっていない塾は「たたずまい」でわかる。
・入り口付近が汚い。
・破れたポップがいつまでも張ってある。
・時期を過ぎた案内が掲示板に残っている。
・切れた電灯がそのままになっている。
一言で言って「汚い・くさい・暗い」の3Kだ。その原因は、ほとんどの場合、規律の欠如に起因している。決して「新しい・古い」の問題ではない。昨日使った教材がそのまま教室に放置されている。ホワイトボードが消されずに残っている。椅子が机の下にしまわれずに出しっぱなしになっている。などもそうだ。いわゆる規律の問題だ。直接の行為者は塾生であったり講師であったりするが、当然、責任は塾長に帰す。「言ってもダメなんですよ」とこぼしているだけの人はリーダーシップに欠けていると言わざるを得ない。
文章中にあるように、規律の根拠に合理的な正当性などない。「俺がきらいだから」で良いのだ。それが塾の風土となり文化を創っていく。文化のないところに魅力など感じない。当然、人も集まってこない。文化を創るのは長たる「あなた」だ。
よく、「企業は人なり」と言うが、ほとんどの経営者が「人とは従業員のこと」と考えている。そのため、高額な教育費を使い「地獄の特訓セミナー」に社員を送り込んだりする。社員が変われば業績が上向くと思っている。とんでもない。「人」とは「あなた」のことだ。人が従業員を指すようになるのは社員数が1千名を超える規模になってからだろう。大部分の塾「企業は社長なり」と考えて間違いない。日本で一番多い肩書きは「社長」だ。600万人以上いると言われている。あなたもその1人だ。
あなたが変われば塾が変わる。
塾長が疲弊していくということは塾そのものが疲弊していくことに他ならない。ランチェスター経営の竹田氏は言う。「会社の実力は社長の戦略力で決まる。」
経営者はいい意味での「わがまま」でなければならない。責任は全てあなたに帰す。けっして従業員と同じ業務に忙殺されてはならないのだ。
塾の文化・社風は、あなたのわがままが生み出す規律によって作られる。

 
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